怪盗・我来也

『諧史』より。
『諧史』は宋の沈シュン(ニンベンの付いた叔の文字)の撰。河南省の汴京すなわち開封の街の雑話及び諧謔に属する話が多く収められているところから題をつけたらしい。


宋の時代のこと。都では盗人がはびこって官憲は大いに手を焼いていた。その出没すこぶる巧妙で、なかなか根絶することは出来なかったのである。
尚書が臨安の尹(いん=長官の職)であった時、奇怪の賊があらわれた。そやつは毎日のように人家に忍び込んでは盗みを働き、その忍び込んだ家の壁や門に真っ白い白粉(おしろい)で「我来也(おれはまたやってくるぞ)」の三文字を書き残していくというのである。
いくら警備を厳重にしてもまったく捕らえることができず、「我来也」の評判は都のみならず、近隣の諸州にまで鳴り響くようになっていった。ついには、盗賊の代名詞のようにいわれるようになってしまった。当時は盗賊を捕まえるとは言わず、「我来也」を捕まえるといった。
ある日、ひとりの役人が盗賊を捕まえて来て、これがすなわち「我来也」であると申し立てた。すぐに獄屋へ送って詰問(ま、正確には拷問だ)したが、彼は自分は「我来也」でないと言い張る。なにぶんにも証拠とすべきものがないので、自白も得られないのでは容易に判決をくだすことが出来なかった。そのあいだに、囚人の彼は獄卒にささやいた。
「わたしは確かに盗賊ですが、決してあの大物の『我来也』などではありません。しかしこうして捕らえられてしまったからにはもはや逃れるすべもないと覚悟していますので、ひとつよろしくお願い申しあげます。ついては、わたしは多くはありませんが白金をいくばくか宝叔塔の某階の某処へ隠しておりましたので、ひとつお納めくださいまし。せめてものお礼心でございます」
「だがあそこは上り下りの人が多い。さてはこいつ、おれを担ぐつもりか」
と獄卒が囚人の言葉を疑っていると、
「どうか疑わないで行ってくださいまし。塔ではこちらに何かの仏事があるとかいって、お燈籠に灯を入れて、ひと晩のあいだ廻り廻っていれば、そのうちに機会がめぐってきますから、そこを見計らってうまく取り出して来ればいいのです」
そこで獄卒はその通りにやってみると、果たして金を見つけたので、大喜びで帰って来て、あくる朝はひそかに酒と肉とを獄内へ差し入れてやった。それから数日の後、囚人はまた言った。
「実はわたしはいろいろな物を瓶に入れて、侍郎橋の水のなかにも隠してあります。これも取り出してお納めくださいまし」
「だが、あそこは人足の絶えないところだ。どうも取り出すに困る」
「それはこうするのです。あなたの家の人が竹籃に着物をたくさん詰め込んで行って、橋の下で洗濯をするのです。そうして往来のすきをみて、その瓶を籃に入れて、上から洗濯物をかぶせて帰るのです」
獄卒は又その通りにすると、果たして種々の高価の品を見つけ出した。獄卒はいよいよ喜んでまた獄内へ酒を差し入れた。
すると、ある夜の二更(午後九時〜十一時)に達する頃、囚人は又もや獄卒にささやいた。
「わたしは表へちょっと出たいのですが…。四更(午前一時〜三時)までには必ず帰ります」
「とんでもない。いくらなんでもそれはできない」
と、さすがに獄卒も拒絶した。
「いえ、決してあなたに迷惑はかけません。万一わたしが帰って来なければ、あなたは囚人を取り逃がしたというので流罪になるかも知れませんが、これまで私のあげた物で不自由なしに暮らして行かれる筈です。それに、もし私の頼みを聞いてくれなければ、それ以上に後悔することになるかも知れませんよ」
このあいだからの事柄をこいつの口からべらべら喋られては大変である。獄卒も今さら途方にくれたがどうしようもなく、とうとう枷をはずして彼を出してやった。
どうなることかとまんじりともせず憂い案じていると、やがて檐(のき)の瓦を踏む音がして、囚人は屋根から飛び下りて来た。獄卒はまずほっとして、ふたたび彼に手枷足枷をかけて獄屋のなかに押し込んでおいた。
さて夜が明けると、昨夜三更の頃、金持ちの張大人の邸宅に盗賊が忍び入って財物を盗み、門扉に「我来也」と書いて行ったという訴えがあった。
「あぶなくこの裁判を誤るところであった。囚人が白状しないのも無理はない。『我来也』はこやつではなく他にあるのだ」
と判決が下された。結局、我来也と疑われた囚人は叩きの刑を受けて境外へ追放とされた。
その後、獄卒は我が家へ帰ると、妻が言った。
「ゆうべ夜なかに門を叩く者があるので、あなたが帰ったのかと思って門をあけると、一人の男が、二つの布袋をほうり込んで行きました」
その袋をあけて見ると、中身はみな金銀の器で、賊は張大人の邸宅で盗んだ品を獄卒に贈ったものと知れた。
尚書は明察の人物であったが、遂に我来也の奸計を悟ることができなかったのである。
獄卒はやがて役を罷めて、囚人に贈られた財宝のおかげで左うちわで一生を安楽に暮らした。彼の死後、その獄卒のせがれは家産を守ることが出来ないですべて蕩尽し、ついにはこの秘密を初めて他人に洩らした。
そのおかげで事件の真相が伝わった、と言われている。